オリンピック開催の本当の意味 実は貴族のサロンの余興だった

2020年の東京オリンピックに関して、新国立競技場の問題や、エンブレム盗用疑惑問題など、色々な問題が出ています。オリンピックとは一体何なのでしょうか。「オリンピック開催の本当の意味」とは何か、ということに関して、興味深い文章を読んだことがあります。
それは、2005年10月に出た、藤原肇『小泉純一郎と日本の病理』(光文社)という本に書かれていました。この本は、小泉政治を扱った時事ネタの本のように思われがちですが、現代日本の政治経済の病理的状況を鋭く抉った非常に興味深い本です。著者の藤原肇氏はもともと地質学の専門家で石油が専門でしたが、国際政治の分野でも活発な評論活動をしています。
藤原肇氏は、リュージュ競技の選手として冬季プレオリンピックに出場経験があり、そして1968年のグルノーブル大会では役員として、主催都市の五輪アタッシェの仕事をやったことで、オリンピックとは何かについて知ることができたそうです。
重い橇を担いで山を登るリュージュ競技はたいへん過酷で、藤原氏は選手として自分が奴隷ではないかと感じたので、1年だけで選手はやめたそうです。そして、そのような奴隷を競わせて楽しむ人々がいて、それがスポーツの祭典を装っており、オリンピック選手という美名での実態が剣闘士に似ていると気付いたというのです。そして、その「奴隷の主人」に関心を持ち、グルノーブルや札幌でオリンピック関係者と付き合いながら、1つの重要な結論に達したそうです。

 グルノーブル冬季五輪大会では、私は市長のアタッシェに就任していたため、各国の選手団長と同格のCパスを持ち、ほとんどどこでもフリーパスで入れた。このCパスの上にはBパスを持つ人々がいて、それはグルノーブル市長やIOCの役員だった。だが、さらにその上にはAパスを持つ人々がいて、それが「雲の上の人々」“people above the low” だったのである。この人々が王侯貴族たちだったことで私の目からウロコが落ちた。
 
 私はリヒテンシュタイン Liechtenstein の総監督を務めていたプリンスと親しくなり、そして、彼を通してヨーロッパの貴族 aristocrat たちを知る機会に恵まれた。そして、彼らと話して、オリンピックの実態は、王侯貴族たちが4年に1度集まるためにあり、スポーツ大会の上にサロンがあると初めてわかった。しかも、貴族たちはオリンピックのパーティーを使い、息子や娘たちのお見合いの席にしていたのだ。


 機会に恵まれてあるパーティーに出席したが、そこにはモンテネグロ Monte-Negro 大公妃が出席していた。そしてさらに驚いたのはキエフ大公 Grand-Duke of Kiev の子孫までいて、「どこに住んでいるのですか」と聞くと、「パリ Paris に住んでいます」と言うのである。つまり、ヨーロッパには一般が知り得ないサロン社会があって、厳然と活動をし続けているのであり、地図から消えたはずの国が今でも存在するのだ。


 つまり、私が垣間見たのはヨーロッパの核心であり、この人々と市民たちが近代社会(モダンソシエティ)を作っていて、歴史の教科書ではすでに姿を消した、1815年のウィーン体制 Metternich System が生きていた。これは移植された近代と民主主義(デモクラシー)の下で育って、教科書で近代を学んだだけの私たちには理解不能 out of thought な世界の話だから、それを知っただけでも私は幸運だったと思っている。

(p.147-148)


こうして藤原氏は、「人間が築き上げている世界の成り立ちについて、真の意味を知」ったというのです。
オリンピックがしょせんそうしたものであれば、(特に我々日本の)庶民にとっては結局の所どうでもいい行事であり、醒めた目で見るしかなくなります。
新国立競技場やエンブレムなどは瑣末な問題で、そもそもオリンピックなんてそんなにありがたがるべきものなのか、という根本的な疑いさえ抱きます。


(追記)
つまり、2020年の東京オリンピックの際には、そのヨーロッパの貴族たちが日本にやって来て、超一流ホテルなどでパーティーをするのでしょう。そのあたりの人の動きを追っかけてみたら興味深いのではないかと思います。


小泉純一郎と日本の病理 Koizumi's Zombie Politics (光文社ペーパーバックス)

小泉純一郎と日本の病理 Koizumi's Zombie Politics (光文社ペーパーバックス)